おっぱいサバイバー

2015年28歳で乳がん告知。闘病の記録と感情をつづるブログ。

乳がん告知から5年目、まだホルモン治療は続いています(残り6年)

わたしの乳がんタイプはホルモン受容性があり、再発を抑えるためには女性ホルモンを抑制する必要がある。5年間の注射(リュープリン)と10年間の投薬(タモキシフェン )が、はじめから決まっている。

治療方針が決まった当初、「5年10年の治療方針を話せるのは、その間は生き続けられる前提ということだ」と、わたしは前向きに捉えていた。結果その通りで、もうすぐ告知から5年を迎える。データ上でも乳がんステージ2aの5年生存率は約90%。何年も経って治療を続けるのは、再発率をできるだけ下げるためだ。

告知されたのは2015年だった。直後、抗がん剤、手術、放射線治療を経てホルモン治療を開始。5年間続けるリュープリンは、残り1年間となった。6ヶ月製剤を使っているので、半年に1度だけ下腹部に刺す注射。毎度痛いんだよ、コレ。でも、あと2回だ。やっとここまできた。

抗がん剤に比べれば、副作用は圧倒的に少ない。だから当初は余裕だと思っていたし、実際に、仕事をしたり家事をしたり趣味を楽しんでる。だけれど、乗り物酔いや低気圧頭痛はひどい。年齢のせいかもしれないけれど、病前と変わった身体の変化はいくつもある。副作用として想定された、いわゆる更年期症状はわかりやすく出ている。それでも自分なりに受け入れ、なんとか4年間付き合ってきた。

治療が終われるなら早く終わりたいな、と、ふと思った。終わりが見えた途端、糸が切れそうになった。本当は治療なんてしたくないんだ。どうしてわたしが? と、いまだに思う。

それでも「再発する(リスクが上がる)よりマシ」という意思で通院を続けている。がんである(あった)ことなんて忘れて暮らしたいとも思うけれど、受け入れていくしかない。あと1年間の治療と6年間の治療。まだまだ長いけれど、半分近くまできた。

これからは、誰か1人のためにでもなるよう、過去の自分を救うよう、5年生存を経過した人たちを集めていきたい。

after5project.com

お知らせ

がんや難病などの患者さんにインタビューを行い「告知から5年」以降の情報を集めるWebメディア、AFTER5(アフターファイブ)というプロジェクトを立ち上げました。

人生会議のポスターについて

人生会議*1というポスターが話題です。わたしもモヤモヤした思いがあるので言語化してみます…… と、書いている途中でどうやら中止*2になったらしい。

この啓蒙で訴えかけようとしている、「自分らしい死に方や死期が近い場合の治療法を考え、家族と相談しよう」という趣旨は、とても共感します。ただそのアプローチが強引で、自分や家族が病や死と近い(と思っている)人たちにとっては不安を煽ったりトラウマを呼び起こすものだし、死とは遠いものだと思っている人たち(たぶんこちらが本来のターゲットなのだと思う)にとっても、もっと先に知るべきことがあるのじゃないか?と考えています。

わたしはがん患者なので、まず、がんという病気について。がんは余命がある程度正しく予測しやすく、最後の治療や死に方を考えられる病気だと思っています。

家族の視点でも同様で、患者本人の望みを聞きやすいし、家族同士の意見も合わせやすい。義父は今年の夏に胆管がんで亡くなりましたが、告知を受けてからの4年ほどは、好きなことをたくさんしていました。何度も家族旅行に行って、治療についても話していたし、お墓も用意していました。いまとなっては本当の気持ちは計り知れないけれど、家族であるわたしたちは「最期まで望みどおりのことができて、おとうさんは幸せだった」と心から思ってます。

人生会議のポスターでは、小藪さんが何の病気(あるいは事故)で、どんな症状かは分かりません。しかし、文面からは死の間際であることは明確で、「酸素の管をつける姿=死」に見えるのが実際かと思います。

これは治療を経て生きる人から見れば、悪趣だなと思います。わたしも術後に酸素マスクつけていたけど、いまは元気に暮らしています。しんどい治療をした人全てが死ぬわけではない。また、いままさに家族の死を受け入れようとしている人とって、不安を煽るものに見えます。わたしは、義父の最期はどう迎えると義父自身や家族が幸せになるかを本気で考えてきたけれど、あのポスターをみて、実は足りない部分があったのだろうか?もっと何かできたのだろうか?と思わざるを得ませんでした。

とはいえ、この企画のターゲットは「死を身近に感じていない元気なひと」なのだろうと思います。そうであるなら、センセーショナルなアプローチの方が情報は届きやすいでしょう。しかし、そういう人たちにとって、仮に情報が届いたとしても、いきなり死に方を考えることを自分ごと化するのはゴールからかけ離れているのではと感じます。

若い(平均寿命から何十歳も離れている)元気な人って、死について自分ごととして考えるのは、あまりに難しいと思っています。少なくとも病気になる前のわたしは、死を本気で考えたことはありませんでした。世間で流行の映画の主人公ががんで死んでも、遠いどこかの話のように感じ、自分とリアルに重なりませんでした。

小藪さんの世代(40代)での死因一位はがんで、以後80代までそれは続きます。また、日本人の2人に1人はがんになります。しかし、どんながん種が多くどんな治療があるか、どんな最後を迎えうるのかはなかなか見えていないと思います。家族も、どんなことをしておくべきか、どうすると後悔しづらいのか、例えば、すでに看取った家族の良かったことや悪かったはまったく分かりません。

これは理想論だけれど、一般的にどういう病で死に至りやすく、その経過はどんなもので、家族はどんな思いになるのか、そこを伝えるところから始まると良いなと思いました。

あらゆる人たちに正しく伝わる企画は難しいけれど、死というセンシティブな話題を扱い以上は、気遣いと覚悟が欲しいなと思います。自戒を込めて。

術後4度目のマンモグラフィと転院の話

前回の記事から4ヶ月。この間の大きなトピックとしては福岡に引っ越しました。それについてのお話はプライベートブログからどうぞ。

記事でも触れていますが、術後4度目の定期検査を無事にパスしました。

わたしの検査は年に一度、PET CTとマンモグラフィを行っています(PETは必須ではありませんが、再発が不安なのでわたしからお願いしています)。とにかくこの検査が嫌すぎる。PETは結果が出るまで最速で中一日かかるので不安になるし、マンモは信じられないほど痛い。手術を受けた(温存した)胸も検査を受けているので、ほとんど脂肪のなくなった乳房を無理くり挟まれて涙が出てくる… とはいえ、もうしばらくは治療があるので、今年もなんとか乗り越えられてホッと一安心しました。

そして、その通院の際に主治医に相談し、転院することにしました。

そもそも、転院するかどうかはしばらく悩んでいました。京都には引き続き出張などでたまに行く予定ですし、通院は3ヶ月に1度の頻度。慣れた施設と主治医のほうが楽なんじゃないかという考えもありました。ただ、出張と通院を同時に行うのはなかなか疲れたし、主治医にはとてもお世話になったけれど、つらい抗がん剤の思い出がある病院を抜け出したいという気持ちが勝ち、主治医に相談したという流れでした。

転院先については、わたしから「九州がんセンターが良いです」と伝えたのと、主治医も「福岡に行くならそこが一番いいね」と言ってくれたのですぐに決まりました。わたしは治験を受けており、あと1年ほどはその追跡調査が必要ですが、がんセンターもその治験の対応病院とのことでした(あとから気づいたことですが)。

そんなわけで、今度からは九州がんセンターに通います。転院手続きの日、問診だけだろうと気軽に行ったところ、血液検査・尿検査・レントゲン・心電図などの検査があり焦りましたが、相変わらずがん以外は健康な身体なようで無事に終わりました。二日酔い気味だったけどよかった。

福岡でも、あと数年の治療をがんばります。


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